2017年12月30日土曜日

温江神社

温江神社。鳥取県智頭町駒帰。

撮影 2014,3,24 日。

すぎっ子バス本谷線終点「駒帰」バス停下車。 












 寛平四 (892) 年熊野本宮から伊邪那美神を勧請「十二社権現」として創建。

天和二 (1682) 年十二社権現と森大明神が合祀。
 森大明神とは駒帰以前の「尺原」の氏神と伝わる。

享保十九 (1734) 年になるとそれぞれ独立して社を建立した。

明治元 (1868) 年森大明神は温江社と改称。























薬師堂。 




 過去帳に「寛政七(1795)年に当地に辻堂あり」とある。

薬師堂も再々の災火に遭い明治二十四(1891)年頃今までより高いこの地に堂を移した。

薬師如来の台座には「京.大仏師法橋道長」と記されており江戸中期頃の作とされる。

現在の薬師堂は昭和二(1927)年に再建された。









広場の史跡案内板の裏側にはこう書かれていた。

  茶屋跡(御殿屋敷)
    古来より上方(京都,大阪方面)へ通ずる往来の宿として栄えた駒帰宿は、
藩政時代になると鳥取城主池田候の参勤交代の時の休憩所として、一段と栄えた。
    お茶屋は御殿屋敷とも呼ばれ、蔵屋敷,馬屋敷等の施設の外、人々が土下座して行列を迎えた土下座場や、札番所がおかれ役馬九匹もいた。
    現在は子供広場になっているところがお茶屋跡で、休憩された後は志戸坂峠を越え、作州(岡山)坂根で休み、大原の本陣に宿泊された。
    なお江戸までは智頭宿より二十一日から二十二日間を要したと記録されている。
                   昭和六十年  智頭町教育委員会

慶安三(1648)年から始まった御殿屋敷の普請の全体は、
承応三(1653)年には出来ていたとされる。

 正徳三(1713)年の大火でお茶屋は焼失した。
 天保六(1835)年にお茶屋は再建されたが、嘉永六 (1853) 年に再び村中残らず焼失。
 その後お茶屋の再建はなかった。









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